京都の六斎念仏(ろくさいねんぶつ)
京都の八月の風物詩であり、五山の送り火とともに親しまれてきた民俗芸能・信仰行事であり、郷土芸能や伝統芸能ともいわれています。現在、15団体が国指定重要無形民俗文化財(国宝)の指定を受けており、「風流踊(ふりゅうおどり)」としてユネスコ無形文化遺産(世界遺産)にも登録されています。
六斎念仏のはじまり
諸説ありますが、「六斎念仏踊り」そもそもの起こりは、今からざっと千年位前に空也上人(くうやしょうにん)というお坊さまが、「もっとわかりやすくお念仏を広める方法はないものか」と工夫され、手持ちの瓢箪(ひょうたん)を叩きながらメロディーに乗せてお念仏を唱えられたことにあると伝えられています。
六斎念仏の六斎とは
仏教には「六斎日(ろくさいび)」という言葉があり、「六斎日」は毎月の8日・14日・15日・23日・29日・30日を指します。
この日には天界から神仏やその使いが降臨して人々の行いを監視する日、又は悪鬼が人間界に災いをもたらす日とされておりました。
六斎日にはお念仏を唱えることで自身を守り徳を得るとされてきました。
六斎念仏の変遷
始まりはお念仏を唱えることでしたが、そこからメロディーが付き歌う念仏となり、そして太鼓を持ち踊る念仏となりました。さらに芸能化が進んで江戸時代には当時の流行物を取り入れた六斎念仏にも進化していきます。この進化した六斎念仏は「芸能六斎」とも呼ばれています。また、六斎日に行われていた行事が先祖を供養する盂蘭盆(うらぼん)の時季へと変わっていきます。
壬生六斎念仏
壬生(みぶ)とは「水が生まれる」ことから「壬生」となり、かつては「壬生村」という名で呼ばれて、京の都の西側にあり、近郊農村として栄えていた場所です。幕末には新選組(しんせんぐみ)が屯所を置いたことでも知られています。
六斎念仏はいくつもの土地において受け継がれております。
壬生六斎念仏講中も壬生の地で、壬生の住人により今日まで継承されてきた六斎念仏であり、通称「壬生六斎」と呼ばれております。
壬生六斎念仏講中がいつ頃、発足したのかは定かではありません。壬生村の若中や講中(こうちゅう)の道具類を保管していた家屋が焼失してしまい、歴史的な資料はほとんど残ってはおりませんが、文久二年(1862)七月の銘の入った鉦や「江戸時代」の物と伝わる笛は残っており、その頃には盛んに行われていたと思われます。
講中と活動
壬生六斎念仏講中は保存会と呼ばずに「講中」としております。
講とは地域や同志の集まりを意味しております。ただ表面的に芸能を残すのではなく、目的を持って交流し、助け合い、生きた民俗芸能を継承しながら、六斎念仏の稽古や関わり、礼儀や文化を深めることも大切にしております。
壬生六斎念仏講中は壬生やその他の地域の年中行事と結びついてきました。
8月9日のお精霊迎え(おしょうらいむかえ)を中心に、祭礼や供養などの寺社への奉納、お祝い事や余興での出張演奏、祇園祭綾傘鉾囃子方などの活動を行っております。